奥松島にて
3日目。
宿泊したのは奥松島にある民宿かみの家。
昨夜は到着が遅かったので周辺を何も見れなかった。
朝起きて、窓を開けると、真下は被災地だった。
かみの家は少し高台にある。
海が見える宿にするために2000万円をかけてコンクリートでかさ上げし、パイルで補強していたそうだだから地震にも耐えた。津波からもなんとか避けられた。
しかし、ご自宅は流されてしまったらしい。ご主人も今は仮設住宅にいらっしゃるようだ。
朝食まで時間があるので歩いてきた。
本当に海は近い。海が好きでここに住んだ人もいるのではないだろうか?
海沿いには釣り船宿もあったが被災してあった。
海から宿に向かう。左手が被災した住宅地なのだろう。
がれきなどはすでに何もない。本当になにもない。この後どうなっていくのだろう?
海は近いのだが、居住禁止にでもするのだろうか?
海を生活の糧にしていた方々にそれを言えるだろうか?
反対側(右手)に仮設住宅。被災されてもまだこんなに海が近いところに住んである。
この仮設住宅に住む小学生は2人だけらしい。たまたま通学するところを見かけた。
ここから宮戸小学校まで約1km。学校の近くにも仮設住宅はあって、そこに住んでいる方もいるらしい。
宿に戻って朝食。
かつて志津川や気仙沼大島の民宿に泊まったことはあったが、いつも朝食は豪勢だった。
今回も豪勢だ!
石巻白謙の笹かま、ギンダラのカマ、ひじきの煮物、辛子明太子もあった。
写真にはとりそこなったが海藻を使ったスープもあった。
本当においしい朝ごはんだ。元気が出る。
海のものはうまい!
食事後、ご主人のお話を伺った。
奥松島は観光地。しかし、松島までは観光客は来てもここまでは来ないのだそうだ。
この周辺は18ほど民宿があったが、今動いているのは2軒。復活することを決めているところも含めて4軒しかないらしい。
グリーンツーリズムのことは以前仙台にいたころから良く耳にしていた。
http://okumatutaiken.aikotoba.jp/index.html
漁業体験で中学校の子供たちと養殖体験で海に出たこともある。
気仙沼大島ではいかの塩辛作り体験もあった。
無人島に行った子たちもいた。
養殖体験では釣り上げたホタテ、牡蠣、ほや...それを見てある教頭先生が「酒持ってこい!」と海の上で叫んだとか...
私の高校時代の修学旅行は松島だった。その時に、漁業体験があってもおもしろかったかもしれない。
小学生や中学生はいい社会勉強にもなる。
いくつかの民宿にわかれて泊ることにはなるが、その分、宿の方との接点もある。
農業体験の修学旅行で秋田に行った小学生は帰り際にそのお宿のご主人と別れるのが悲しくて泣きだしたこともあった。各地の学校が目を向けてくれたら面白いなと...私は思う。
南三陸へ
朝の体操は「おらほのラジオ体操」(....の予定だったのだが、音源がなくみんなでストレッチ)
夜は真っ暗で見えなかった被災の状況を確認しながら走る。
車窓から見えるがれきの山山山...
途中、仙石線の代替バスと出会った。
東洋交通にミヤコー。以前にしょっちゅうお世話になったバスだ。
戸倉
南三陸町に入る。
まずは戸倉だ。戸倉小学校が目に入る。
ここは避難所だったのだろうか?小学校は壊滅としか言いようがない状態だった。
高台にある戸倉中学校に登った。
ここはおよそ15~20mくらいの高さではないだろうか?
校舎も合わせると25mくらいだろうか?津波はここまで襲ってきた。
津波の高さがそこまであったわけではない。
戸倉は上から見ると湾と山の間にある狭いところ。ここに津波が一気に押し寄せ行き場を失った。
海の水は山を駆け上がった。絶対にここには津波は襲わないと思われていた戸倉中学校まで襲ってきた。
絶対大丈夫だと思って避難していた人たちまで襲ってきた。逃げて裏の山を駆け上がってきた人たちにも襲いかかった。
山を駆け上がってきた水は後ろからだけ襲ってきたのではない。突然横から襲ってきたりもしたそうだ。
まったく予測がつかないまま逃げた、それでもここでは犠牲者が出た。
中学生たちが遺体を運んだそうだ。
今、ここでは中学生の姿はない。校庭は仮設住宅になっている。
中学生たちの心のケアは大丈夫だろうか?彼らは今、どこに通っているのだろうか?
戸倉に残っているのだろうか?
書いている最中に戸倉でのイベントをやるという話が入ってきた。
http://kamiwarirockfestival.com/volunteer/
南三陸初の夏フェスだそうだ。若者が集まってくれるといい。
志津川
志津川に入る。
人の気配を全く感じない。
バスで営業されているラーメン屋、プレハブでやっているコンビニ、復興市場..それはあるのだが、人はどこにいる?
産業がなくなっているのが来てみて本当に実感できた。
そして被害の範囲が本当に広く感じた。
もともと海の街なのだが、海に出れなければ仕事はあるのか?
仕事がなければ働き盛りの若者はどんどん流出してしまう。
この街の未来はどこに向かうのだろう?
歌津
気仙沼
気仙沼に入る。いのりの広場というところがあった。お寺さんが作ってあるようだ。
気仙沼向洋高校があった。元は水産高校だったようだ。
その周囲には水産加工工場があった気配があるが、今は何もない。
足をすすめる。どうやらこの先は民宿街だったようだ。
しかし、廃墟しかない。
ここには有名になった松があった。
龍になった松だ。
そして、そこから陸の方に目を向ける....
がんばろう家
本吉まで戻る。ここは今でこそ気仙沼市だが、以前は本吉町だった。
気仙沼地区はフェンシングの盛んなところでもあり、高校総体で何度か本吉まで足を運んだことがある。
あの当時は仙台からで、本当に遠く感じた。片道2時間半くらいかかっていた。
このがんばろう家というラーメン屋は、店主の娘婿さんが、結婚後100日で震災で亡くなったそうだ。
何かしなければ....気持ちをふっきるために、早い段階でラーメン屋を再建したそうだ。
親戚中からお金を借りて、店を建てたのだそうだ。
お昼時に行くと、お客さんが結構多かった。近辺で頑張る人たちの食を支える場所になっているのだろう。
ラーメンを大盛で一杯頂き、海鮮ラーメンを半分ごちそうになった。
普通のラーメンはしょうゆ味。これもうまいのだが、海鮮ラーメンはもっとうまかった!
スープは塩をベースにした味で、海の味がした。
麺にはのりを練り込んであるらしい。震災前はわかめを使っていたそうだが、品薄なので乗りにしたらしい。
具にはホタテ、貝、エビ、わかめ、海の幸がいっぱいだった。
美味しかったです!と言ったら...「うちの名物はタンメンなんです」...もう一回行かなければ!
本吉大谷にて
Mさんのお宅にうかがった。メンバーの一人が震災後から関わっている方だ。
この方は58歳までマグロ漁船に乗っていらっしゃったそうで、奥さんは病院に勤めてあるらしい。
震災後、「誰も頼らない!」と自分で仮設になる家(仮設なのでプレハブのような)を作り上げて、行政の世話にならずに暮らしてある。
ひとたび海に出たら、自分たちで何とかしなければならない、そんな海の男の気持ちがそうさせたのだろう。
畑も作り、農作業と海の仕事(具体的には何かはわからなかった)をされているそうだ。
しかし、その気持ちが行政に対しては伝わるものではないようだ。
家は建てたものの、電化製品はない。
しかし、支援物資は仮設住宅に入っている人にしか与えられないそうだ。
仮設住宅に入って、一日中酒を飲んで、テレビを見ていても、食べ物も毛布も電化製品も支援で与えられる。
しかし、その全ては「仮設住宅に入っている」と言うことが条件で、Mさんのような場合には何も与えられないのだそうだ。
Mさんのように、自分で住む家を建てた人だけではなく、自宅1階は使えないが2階は使えるので住んでいる方..なども同じ扱いなのだろう。
同じ被災者で、なにもかもなくしたというのは条件としては変わらないのに、行政のこの対応のひずみはなんなのだろう?
Mさんは言う。早くなんとかしないけど、仮設に入ってる人たちとは話が合わない。何年後かに家や土地をもらうからそのまま仮設にいるだけでいいと考えている人たちとは話が合わない。
行政の支援のひずみは、地元の人たちの気持ちにも溝を作ってしまっている。
一致団結して町を復興させないといけないのに、動かない人がでてしまう。
震災支援に限らないが、与えすぎの政策は人を腐らせてしまうのではないか?
メンバー同士の話の中から「飼殺しなんだよ」という声が聞こえた。
仮設に入っている方の支援をやめろというのではない。
しかし、みんなで立ち上がるための政策を何か考えて行くべきではないのか?
今の政治にリーダーシップはあるのか?ただのご機嫌とりなのではないか?
千厩
一関の千厩仮設住宅にうかがった。
ここは最後まで避難所にいた方が入っていらっしゃるらしい。
お年寄りが多い印象を受けた。
気仙沼からの避難所なのだが、ここは岩手県一関市にある。
学校の関係で子供たちはほとんどいないようだ。当然、その親世代もいないことになる。
他の仮設住宅とは少し違う印象を受けた。
他の仮設住宅では仕事に復帰するため、社会復帰のために何かをしないとという部分も感じられたのだが、
今回うかがって受けた印象は、心のケアを中心にしなければいけないようなところなのだろう、ということだった。
歌い、踊り、何かを楽しむきっかけがほしい、そんな感じを受けた。
いろいろな事情もあり、仮設住宅内の運営も難しいところのようだ。
慰問団が訪問し、みんなで見る。笑う。そういうきっかけがほしいところなのかもしれない。
私が話したのは80歳代のおじいさん。ハーモニカがお上手だということだったが、今はアコーディオンを練習し出して、アコーディオンを上手に弾けるようになるのが夢なのだそうだ。
気仙沼にいたころに社交ダンスをやっていたので、みんなで練習したいようなお気持ちをもっていらっしゃったようだが、なにしろ音源がない。なので、私が社交ダンスに使えるCDを送ることになった。探さなければ。
ここでは何をしたらいいか?を聞き、話し合うのではなく、実際に一緒にお話しして聞いて...というケアだけだったのですが、これはこれで大事な支援活動なのでしょう。
仮設住宅ごとに求められることが異なることを認識させられました。
気仙沼紫市場へ
夜の食事は気仙沼へ向かった。もう暗くて、周囲の状況はよく見えなかったのだが、被災地であることは確認できた。紫市場では床屋などもあり、食べ物やだけが集まっているわけではないようだ。
ここで気仙沼のお酒をいただいた。勧められたのは気仙沼であわび養殖をされているSさんだった。この方は飼い犬を仮設住宅に連れていけないため、家族と離れお寺に住んであるらしい。
Sさんにアワビの養殖を再開しないのですか?と聞く。
一人でできる仕事ではなく、お金もかかる。作ったとしても売れるかどうかわからない。なにしろ福島第一原発から流されている放射能の問題がある。海藻に出始めているので、海藻を餌にしているアワビに出ないはずがない。そう言われる。だからやれないのだそうだ。
東京電力はどこまで被害をだしているか認識しているのだろうか?
国も東京電力も、今後養殖を再開して売れなかったものに対してしっかり補償する気はあるのだろうか?
そのための資金を作るために借りたり、募金を集めたり...さまざまな苦労をして再開しようとして、さらに駄目だった場合、どれだけの絶望感がまっているかわかっているのだろうか?
海に拡散させたことは私は当初から世界的大犯罪だと断言してきた。
これから何十年も苦しむ人たちが出てくる可能性を認識しているのだろうか?
安易に海への放水を認め、代替措置をすぐにとらなかった政府も問題だ。
いろいろな代替案を提示してあった方は多くいらっしゃった。
聞く耳を持たなかった政府や東電は、どれだけ被害をまき散らし続けていたか認識していたのだろうか?
今からでも遅くはない。非を認め、補償をすることを確約すべきであろう。
正直なところ、養殖を再開したところの今後の風評被害が心配だ。いや、風評ではない。
基準値をあいまいに決めて、風評だと上からは言っているが、その基準こそが問題だ。
国民の健康を考えた基準でないのだから....ご都合主義で決めた基準など迷惑なだけだ!
それこそ風評被害のもとなのだ。
作ったものにしか補償しないと東電は言っていた。ならば、作ったものに対しては何十年でも補償し続ける義務はあろう。
そうでなければ、三陸の漁業はもう立ち直れない。
漁業を生業にしていた人たちの生活の再建などあり得ない。
「あきらめて、次の仕事をはじめろ」...口で言うほど簡単なことではない。
これまでの何十年もの努力を水の泡にしてしまった、その責任を感じてほしい。
これは犯人探しでも何でもない。被災者の生活を守るために必要なことだ。
店には気仙沼高校のマンドリン部の定期演奏会のポスターが貼ってあった。
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